関係を生きるというとき、それはまずことばから始まるわけではないことを教えてくれる。

皆藤章

ここ数ヶ月、本を読めなかった。
読めないあいだは、早くはやくと思っていたのに、
いざ時間ができるとなかなか本に手が伸びない。

ひたすら眠って、夢と体力がもどってもだめ。
気に入りのリコッタチーズのパンケーキを出すカフェで
昼からグラスビールと一緒に満たされても、だめ。

結局、本と向き合えるまで2週間かかった。

その間、映画館で季節外れの素晴らしい映画を観た。
部屋でピクサー映画をみた。好きな作家の喋る動画をみた。

根津の石蔵を改装した素敵なお店でうどんを食べた。
天井桟敷の人々、というバーで、
フランスに住む友人とGoogle Meetで乾杯した。
(天井桟敷の人々は、大好きな映画。2度劇場で観た)。
行きつけの蕎麦屋のとうもろこしのかき揚げで夏の終わりを感じた。

親しい人たちと、ほんのあらすじの近況報告をし合う。
笑ったり真面目に話したり、大人の節度と思いやりで開閉し合う。
大切な人たちだな、と感じながら、嬉しいような寂しいような時間を過ごした。

東畑開人さんのトークイベントに参加した。
心に留めおきたい言葉ばかりだった。
ふざけているようでいて、率直で誠実な人柄に元気になった。
今なら本が読めそう!と、ジュンク堂で安くない衝動買いをして帰った。
※引用は衝動買いの一冊、皆藤章さん(東畑さんの恩師)の著書より。素晴らしい本だった。

*

そこから1週間(今週)はほぼ自由な時間で、ひたすら読み続けた。
朝から晩まで。時間と気持ちの余裕がないと読めないような本を。

最高に贅沢だ。
ひとりでひとりじゃない。
一緒に考えてくれる人がずっと目の前にいる。

けれども、ひとりで本を読み続けていると、
どんどんシリアスになってわけがわからなくなってくるときがある。
ジャンルを変えないと、現実の具体に戻らないと、まずいと感じる。
頭と心をフル回転させ続けるのは、体力を使う。

5日目の朝、起きたらものすごく疲れていた。
今日は読めないかも…と思いながら図書館を回遊した。

前日、太宰治の「尼」と言う作品を教えてもらい、古い文庫をひらいて読んだ。
あぁ、彼のユーモアが最高に好きだ。
文章のうまさも、虚勢を張る書き振りも、だからこそ傷つけない優しい文体も。
何度でも、読むたびに、やっぱり「好きだ」と思う。

図書館で借りた本に、高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』がある。
最後の章は、太宰治について書かれていた(知らずに借りた)。

太宰には戦争をテーマに書いた作品があり、「戦争協力作品」だと言われることがある。
高橋源一郎は違う読みをし、太宰は巧みに反戦の意を示し、文学への姿勢を示したと言う。

「十二月八日」を読み直し、太宰らしいユーモアに笑い、
「散華」を読み、太宰の想いを想像し、三田君の詩に泣いた。

太宰治「十二月八日」
太宰治「散華」

*

この6日間で10冊ほど読んだ。
またこれから読めない時期が続きそうなことを恐れて焦っていた気がする。

ここにすべての読書メモを残したいと思ったが、
ほんの一部になった。

*

誰かが話すと、書くと、それが本当のことに思える。
わざわざ言葉にするのだから、本心(?)なのだろう、
大事なことで、いま考えていることで、言いたいことなのだろう、と思える。

けれど、私はここに一部しか書けていない。
引っかかっている言葉や、紹介したい言葉や本を書ききれていない。

好きな人、大切な人と会って話すとき、
伝えたいことは伝えていない。自分でもわかっていない。

小説や詩は、悲しい、孤独だ、幸せだ、と直接には言わない。
登場人物と、作家と、私がいる。その本を読むほかの誰かも。

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*出典  皆藤章『それでも生きてゆく意味を求めて こころの宇宙を旅する』