「もしもだれかを恋しく思うなら、そのだれかは、もういるのよ」
オルガ・トカルチュク
目を落とすたびにいとおしくて、読むとことばが壊れてしまいそうで、
つぶれてしまわないように、恐るおそるこころのなかに入れるような、
まるでむずかしくないのに、一音ずつふれていくしかなくて、
わかるはずの意味がとらえられず、いったりきたりするような、
あぁここにずっといたい、
と留まってしまうことばに出逢うことがある。
*
ノーベル文学賞記念講演をおさめた講演録。
表題の引用は、冒頭で描かれる幼いころの母からの言葉。
読むあいだ、何度も顔を上げ、呼吸しなおし、
だれか読んで…!ひとりでは読み堪えられない…
と、ため息をつきながら叫びたい気持ちだった。
けれどもそれは、やはり、わたし独りの実感かもしれない。
講演録であり、文学でもあったということかもしれない。
*
冒頭の母との回想を終え、講演の主題にはいると、
彼女の存在に裏打ちされたつよい言葉が並び、圧倒される。
現代世界や文学市場に対する厳しいまなざしと、
本来、文学が持つはずの力への揺るぎない信頼。
つよく、するどく、美しいことば。
( オルガ・トカルチュクはポーランドの作家。
こうして日本語に訳してくださった翻訳者に感謝。)
*
下記に引用する2つめの文章を読みながら、
わたしは涙が出てしかたなかった。
なぜだろうと考える。
*
こういうとき、人文学不要論というようなものを思いだす。
役に立つか、立たないか、お金をかける意味があるか、ないか。
主体が”個人”なら許されるのかもしれないが、
“社会”になると「要らない」と言い捨てられるのかもしれない。
人文学がなかったら、知らない世界や歴史や感情がないものになって、
わたしはなにも見えなくなり、考えられなくなる。
知らない誰かを想像することも、感じようとすることもできなくなる。
“社会”のためになにができるのか?
どう接続できるのか。それは考え続けたいと思う。
……
ただ、わたしは、たいせつにして生きているものを否定されたと感じる。
存在を否定されているように感じることもある。反論する気力もなくなる。
子どもが、だいじにしているなにかを
大人に勝手に価値判断されて捨てられるような。
*
オルガ・トカルチュクが語る文学の力。
わたし自身いつも感じているから、信じるもなにも、在る。
ただ、彼女のような書き手に、文学への信頼を語ってもらえると、
ただほっとして、存在を許してもらって、優しくありたいと思える。
こんにち、わたしたちの問題は、未来ばかりか、具体的な「いま」を語る語りさえないこと、現代世界の超高速な変化を語るために適切な語りがないことにあるようです。言葉が足りない、視点が足りない、メタファーが、神話が、新しい物語が足りないのです。
もはや旅行中に日記をつける必要はなく、写真を撮ってSNSで世界に発信すればいい。一瞬でみなに届きます。手紙を書く必要もない、電話する方が簡単ですから。テレビドラマに夢中になれるのに、なぜ分厚い小説など読むでしょうか。友達と街へ遊びに出かけるよりも、ゲームでもしていた方がましです。だれかの自伝に手を伸ばすかって?そんなもの意味がありません、だってセレブの生活をインスタグラムでフォローしていて、彼らについてなんだって知っていますから。
暴力や愚かしさ、残虐さのイメージや、ヘイトスピーチの奔流が、あらゆる種類の「よいニュース」と、絶望的な均衡を保っています。しかしそれらの「よいニュース」が、言葉にすることすら困難な、強烈な表現を手なずけられるわけではなく、世界はなにかが間違っています。この感覚は、かつては神経症的な詩人の専売特許でしたが、いまやこれは確定されない伝染病、至るところから浸み出てくる不安感なのです。
わたしたちは見逃しています。世界が事物と出来事の集積になりつつあることを。
文学は、世界の具体性に生きるわたしたちを支えようとする分野の一つです。(中略)ただ文学だけが、わたしたちに、べつの存在の人生に深く入ることを許すのです。その理屈を理解し、感覚を共有し、その運命を生きなおすことを。
文学は自分以外の存在への、まさに優しさの上に建てられています。それは小説の基本になる心理的メカニズムです。この奇跡的なツール、人間のコミュニケーションの最も洗練された方法のおかげで、わたしたちの経験は、時間を超えて旅をして、まだ生まれてもいない人にもめぐりあいます。
物語の創造とは、物に生命を与えつづけること、人間の経験と生きた状況と思い出とが表象するこの世界の、あらゆるちいさなかけらに存在を与えることです。
フィクションは常に、ある種の真実です。
*出典 オルガ・トカルチュク/小椋彩・久山宏一訳『優しい語り手』