外交的な人は自分の内界を防衛しているはずですし、内向的な人は外界のことを防衛しているはずです。
河合隼雄
今、本を読めるコンディションにあり、
余裕のあるはざまにあるので、1日1冊は読みたい。
睡眠欲も食欲も惜しんで本を欲する感覚は久しぶり。
こういうとき、読みたい本は数珠つなぎに見つかる。
昨夜はハードカバーを2冊買った。衝動買いに近い。
こういうときの直観は、はずれない。
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一昨日、「前後際断」と「縁起」について、
2つの言葉をどう捉えればいいのか、と書いた。
これについて、ありがたいことに考えをいただいた。
“「前後際断」は時間の話で、「縁起」は絶え間ない変化の話なんだろう “
そうか、縁起は「変化」なのだった。
肩が軽くなった。重荷に感じていたわけではないのに。
自分が言葉をどう捉えているのか、こうしてわかっていくからおもしろい。
私の「縁起」のイメージは、
すべては関わり合い影響し合って起こっている、
絵にするとインドラの網のようなものだったと思う。
インドラの網は美しいけれど、
結び目から逃げられない、どこか窮屈な印象があったのかもしれない。
でも、縁起はたしかに絶え間ない変化で、
変わり続ける世界にあって関係性や”私”も変わり続ける。
賢治が「わたくし」は「現象」であると詠ったくらいに。
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表題は、昨日読んだ『カウンセリングの実際』からの引用。
─外交的な人は自分の内界を防衛しているはずですし、
内向的な人は外界のことを防衛しているはずです─
選ぶのに迷うほど、気づきの多い本だったが、
私はこの言葉で蓋を一枚外してもらったように感じた。
外向性と内向性は、どちらが良いでも悪いでもなく、
ただ、見ないようにして防衛しているものが違うということ。
考えてみればそうだろうと思うことも、
こうして誰かに言葉にしてもらうことでようやく気づく。
自分の内向的側面に、自分本位な守りの姿勢の強さを感じ、
自己嫌悪に陥ったり、勝手に孤独を感じて嫌になることがある。
(東畑さんの言葉を借りれば、文学的でOKなのかもしれない)
でも、外交的であれ、内向的であれ、
内面を閉鎖していることに変わりはないのかもしれない。
昔の自分を思えば、内面を閉鎖するどころか、見ていなかった。
外ばかり向き、”ひとりである”ということがわからなかった。
誰にでも外交的・内向的の両面ある(両面ある、はキリがない)。
大事なのはバランス。どこでどのくらい開いて、閉じるのか。
相手に対する誠実さと、自分が不要に傷付かないための見極め。
数年前、あるお坊さんの話にはっとした。
“「中道」とはどっちつかずの中途半端ではなく、
常に変化のなかで探り続けていく創造的な営みである”
これも忘れずに参照し続けている言葉のひとつ。
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変わりたいし、変わりたくない。
今日まできちんと適応できていたものをゆさぶってまで、
新たな可能性のために自分を変えていくことは怖い。
悪くなる不安も危険性もある。でも、変わっていきたい。
そういう相反する本心が私たちのなかにある。
クライエントの悩みを簡単にとろうとして、かえって、その生きがいさえとってしまうことになります。実際、われわれは、もっとひとの悩みを尊重しなければならないのです。
二律背反がクライエントの心のなかにあるのを、カウンセラーが両方共受け入れていくことによって、それよりも高い次元のものが創り上げられるわけです。そういう意味でカウンセリングというのは、一回一回が創造的な、ものごとを創り出す過程であるといっていいと思います。
カウンセラーは、クライエントの悩みに内在する可能性を信頼し、
一緒に恐ろしい世界へ入っていく決意と修練が必要である。
そう河合隼雄が考えていたことを、この本を通して強く感じた。
ひとりでは揺さぶられるのが心細いとき、
何になるかわからないものを信じて一緒に創ろうとしてくれる、
もしくは、創る過程を見ていてくれる人がいたら励まされる。
カウンセラーというのは音楽の指揮者に似ている点があると思います。つまり、メロディーだけを聞いていない。メロディーから低音までの全部の音がそのまま聞こえているのです。
自分の音を聞くのは難しい。
聞きたい音にしか耳を貸せない。
誰かが聞いてくれることで、
耳をふさぎたくなる音が聞こえてしまったり、
案外、いい音が鳴っていることが発見されたりするんだろうか。
いつか、誰かの音を発見して伝えてあげられたりするんだろうか。
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# 一人ひとりの一事象にいろいろな因と果があるなかで、
創造的に関わり一緒に変化していくことの重要性がこの本には書かれていました。
それは「非線形思考」とも言えるのかなと思いました。
*出典 河合隼雄『カウンセリングの実際問題』