何度でもわかり直そうとしていくことが「負けない」ということです。

東畑開人

昨夜、東畑開人さんの新刊イベントへ行った。
トークテーマは「読書と、ケアをすること」。

印象に残る言葉がたくさんあったため備忘録。
(文中の引用は、東畑開人『雨の日の心理学』より)

「ない」だけなのに、「ある」と妄想している。
「不在」が発見される。ゼロが見つかる。

先日、ラジオで「前後際断」という禅語を知った。
過去や未来は切り離し、今を生きなさい。

過去はもうない、未来はまだない。
ないものに心を持って行かれるな。

「今を生きる」「今、ここ」
といった言葉は飽きるほど聞いているのに、
過去を振り返るし、未来に不安を感じる。

後悔先に立たず。大事なのは、ここからどうするか。
そう頭で「わかって」いてもぐるぐるする心。
その心の助けになるのは、「わかって」いるはずの頭。

わかっているのにやってしまうのなら、
わかり直し続けるだけ。
自分のことも、他者のことも、関係性も。

「わかる」ってなんとなく無力なイメージがある言葉ですが、実際には「わかる」にこそ過酷な現実に打ちのめされないための深い力があるということです。

──前後際断 ──
憑き物が落ちそうなほどの切れ味。

自分の傾向、自分の苦手分野、
もう、そういうの手放してもいいんじゃないか。そう思える。

“私”と”文字”は他者であり、
文字は、自分一人で考えられないことを考える手助けをしてくれる、
と東畑さんは言っていた。
自分の考えは、文字にすると、他者になる。

書くことで、絡まるものを切り離せそうだ。

── 前後際断 ──
この言葉と「縁起」や「因縁」はどう関わるのだろう。

レイヤーが違う?「縁起」は仏教の根本的な概念、
その中にある側面のひとつが「前後際断」だろうか。

仏教は「苦」や「心」のような、
生きる上での根本問題の仕組みや対処法について、
言語化に手を尽くしてきてくれたという印象がある。

そこも好きだ。

腑に落ちる強度のある言葉。
強度とは、言葉を支える思考や経験。

単に破壊力のある言葉、という意味での強い言葉
(たとえば、ネット記事のタイトルのようなもの)
もあるが、強度とは別もの。

世界が広がるのは、強度のある、ふつうの言葉。

*

臨床心理学は、
「ネガティブをどう人生に位置付けるか」という治療文化、
と東畑さんは言った。

そうか。思わずメモした。だから惹かれるのか。

──ネガティブをどう人生に位置付けるか──

私にとっては、仏教もそう。文学もそう。

ネガティブ最高、とかそういうことではない。
そういう「陰」が人の在りようや質感をつくる気がして、
人の魅力はそのあたりが源になり惹かれ合うように感じて、
そのままの形でどう位置付けるかを考えたい、と思う。

そもそも、”ポジティブ”と”ネガティブ”は
言葉の色彩が強くて難しい。捉え方の話。

*

その人の要素をつくる或る種の神経症について。

治すのではなく、「健康的」ではないが「文学的」である、
というかたちで受け止めていく方がよいこともある、
という話に笑いながら、ちょっとわかると思った。

*

落ち込んだときの対応法について。

「愚痴を言いまくる」と冗談半分に笑いながら、
「けど、人に話すことじゃないですか。本当にそう思う」

──他者の心はまじで凄いです──

力強い言葉の熱量がこちらに移る。
そう、自分で処理できないんだよね、ほとんどの困った事態は。

自分のことを話すのが苦手だとかいうことは、
めんどうで人間らしい「文学的」要素として置いておいて、
前後際断。

感傷的に描く過去の自分は「不在」。
妄想を描かなくても積み重なりが今だから安心していい。

*

こうして言葉ひとつに一喜一憂して、
単にことば遊びが好きなのか?とも思うけど、
やっぱり言葉を通して世界を見ることが好きなのだ。

ちょっとした言葉の違いで捉え方ががらりと変わる。
自分のこだわりや恐れなんて「ない」のかもしれない、
自分のまったく知らない物語が「ある」のかもしれない、
と思える大転換が、灯台にも道しるべにもおまもりにもなる。

*

<昨夜、帰りに迎えた本>
河合隼雄『カウンセリングの実際問題』
オルガ・トカルチュク『優しい語り手』

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*出典  東畑開人『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』