いいかげんにやめてもらおう、時間のことをなんだかんだ言うのは。ばかげとる、全く。いつだ!いつだ!ある日でいけないのかね。ほかの日と同じようなある日、あいつは唖になった。わしは盲になった。そのうち、ある日、わしたちは聾になるかもしれん。ある日、生まれた。ある日、死ぬだろう。同じある日、同じある時、それではいかんのかね?
サミュエル・ベケット
『ゴドーを待ちながら』を2年ほど定期的に素読みした。
「不条理演劇」の代表作といわれるベケットの戯曲。
*
「待ちながら」という訳が好きだ。
進行したまま、今も待っているまま。
(原題)
・仏『En attendant Godot』
・英『Waiting for Godot』(ベケットによる英訳)
待ち人登場がメインなら、
それまでは、つなぎのようなもの。
ふたりは「待ちながら」であるがゆえに、
つなぎとなってしまった時間を過ごす。
おなじ毎日、たまの来訪者、
時間をつぶすためのおしゃべり。
ゴドーのことなど、ほぼ忘れている。
ところが、どこかへ行こうとすると、
待っていることが思いだされ、動けなくなる。
待ち合わせの約束があるから
それまでの時間を過ごすことができるが、
待っているから進めず、同じことがくりかえされる。
*
「会った」「会ってない」
「来た」「来てない」
「知ってる」「知らない」
記憶や時間が共有できない。
どちらが正しいのかわからない。
いや、そうだったかもしれない。
そうではなかったかもしれない。
*
2年間継続して素読みをするうち、
難しい、わからない、という感覚が薄れ、
エストラゴンやヴラジーミルに
親しみや愛おしさを感じるようになった。
冒頭で引用した台詞を含め、
声にだして読むと泣きたくなる場面がある。
それは、彼らの感情ではない。
そのことばを発する彼らへの共感と自分への跳ね返り。
なにかに投げやりになりながらも離れがたくて、
切実なことばや態度を見つけて、ほら、と言う。
それは自分、他者、世界全体に対して、
諦めたくない、という願いのようなもの。
誰かがわたしたちを必要とするのは毎日ってわけじゃないんだ。実のところ、今だって、正確にいえば、私たちが必要なんじゃない。ほかの人間だって、この仕事はやってのけるに違いない。わたしたちよりうまいかどうか、そりゃ別としてもだ。われわれの聞いた呼び声は、むしろ、人類全体に向けられているわけだ。ただ、今日ただいま、この場では、人類はすなわちわれわれ二人だ、これは、われわれが好むと好まざるとにかかわらない。…運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。どうだね?
冒頭の引用には、差別用語が含まれる。
「わし」という一人称も語尾も古めかしい。
けれど、ことばとリズムに引っ張られる。
読みながらドライブしていく感覚がある。
「多くの人がこの訳を読んできたという信頼がある」
と言われて、そうだ、と思った。
読まれてきたことばには強さがある。
ことばの強さがあるから読み継がれてきたのであり、
読み継がれてきたことでさらに強さを増す。
お経や聖書やコーランもそうだろうか。
*
冒頭の台詞の新訳版を下記にあげておく。
くそったれな時間の話でおれをいじめるのはいい加減にしてくれ!いつのことだ!とか、いつからだ!とか。ある日、それじゃ足りないのか?いつもと同じ、ある日じゃ。ある日、あいつは口がきけなくなった。ある日、わたしは目が見えなくなった。ある日、わたしたちは耳も聞こえなくなるだろう。ある日、わたしたちは生まれた。ある日、死ぬ。いつもと同じ一日、同じ瞬間。それじゃ足りないのか?
『ゴドーを待ちながら』(岡室美奈子訳)
*
欧米の出版業界では、
文学作品における差別表現の削除や変更が行われている。
(参照:https://courrier.jp/news/archives/326113/)
日本では、同じような状況の場合、
「作品が書かれた時代背景を考慮して…」
といった注が添えられ、オリジナリティが尊重される。
*
差別表現を排除して差別はなくなるか。
作者に差別の意図がないこともある。
差別の意識があったとしても、
時代背景を含めてそれが事実だ。
今日、敢えて差別表現を用いて伝えることもある。
それは、差別を肯定したり助長することとは違う。
そもそも価値観は変わり続けるもので、
今「よし」とされているものも安泰ではない。
その都度、削除・変更をしていたら、
まったく違う作品になってしまう。
負の要素を含むことばを残すことは、
歴史や思想を振り返り続けることでもある。
文学は作品としてそのまま残し、
その上で、変えるべき現実を変えていきたい。
*出典 サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(安堂信也/高橋康也訳)