僕はそこに、ダビが黒インクで書いた言葉を見つけた。“Mitxirrika”(ミチリカ)。僕たちが子供の頃、蝶を指すのに使った言葉だった。もう一つのマッチ箱を開けた。中の紙きれには“Elurra mara-mara ari du”(エルラ・マラ = マラ・アリ・ドゥ)とあった。雪がしんしんと降るさまを表わすのにオババで使われていた言い回しだった。
ベルナルド・アチャガ
「その他」の側から世界を見る
『 『その他の外国文学』の翻訳者 』帯より
「その他の外国文学」とは、
大手ネット書店で使われる分類表記。
英米文学、フランス文学、ドイツ文学…などではない、
「その他」の外国文学を指す。
9名の翻訳者が、その言語との出会いや翻訳の苦労、
現地での交流や文学観などを語るインタビュー集で、
日本翻訳大賞 受賞者も名を連ねている。
ヘブライ語、チベット語、ベンガル語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語、タイ語、ポルトガル語、チェコ語…
どれも魅力的で、各言語1冊ずつ図書館から持ち帰り、
バスク文学『アコーディオン弾きの息子』をひらいた。
*
わたしは、この感覚がほしいんだ、
この時間の流れがほしいんだ、と思う。
ことばの向こうとわたしが地続きになり、
ひとりの生に悠久のときが重なるような、
用意されたしあわせな結末ではなく、
その先を持ち帰り創造できるような物語。
*
母語を失うとは、どういうことだろう。
バスク語をめぐり、回想録は紡がれる。
翻訳者の金子奈美さんは、
バスク語の音をたくさん表記しており、
カタカナで思わず音読する。
‐Elurra mara-mara ari du‐
(エルラ・マラ = マラ・アリ・ドゥ)
雪がしんしんと降るさまを表わす。
きっと、雪が「Elurra」で、
「mara-mara」はしんしんをさすオノマトペ。
2月、埼玉で雪が積もり、
3月、青森で雪の舞うのを見る。
‐Elurra mara-mara ari du‐
そのたびにつぶやいてみる─
すると、ベランダや車からみる雪が、
知らない国の景色のような、
はじめてふれるような音や色になる。
*
青森に訪れた際、
アイヌ音楽のライブへ行く機会に恵まれた。
アイヌについての雑誌があり、
アイヌ語についても書かれていた。
アイヌ語はもともと文字を持たず、
口承で伝わってきた「音」の言語であること。
ユネスコ発表の消滅危機言語に含まれること。
もう、アイヌ語を母語とする人はいないこと。
そのようなことと共に、
アイヌ語の特徴も載っていた。
たとえば、
アイヌ語では「これをあげる」とは言えず、
人称接辞を付けて「私がこれをあなたにあげる」
とかならず言わなければならない。
譲渡可能・不可能なものを言い分けたり、
場所・場所でないものを厳密に区別する。
日本語とは単語も文法も異なる、など。
世界の見方や、自然や人間との間柄を
アイヌの人びとがどう捉えていたか、
きっとアイヌ語に表れているのだろう。
*
自分の証を残したいと思わない。
なにも残らないことを悲しいと思わない。
なんらかのしるしが残らないはずはない、
と、どこかで思っているのかもしれない。
けれど、どこかの言語がなくなることは、
取り返しのつかないことのように思える。
日本語がなくなっていくとしたら、
いまのわたしの世界も崩れるだろうか。
それとも、わたしを形成するものと、
世界との境界が曖昧になり平穏になるだろうか。
*
世界には7,000種類ほどの言語がある。
ユネスコがあげる消滅危機言語は2,500種類以上。
(ユネスコの調査は手話には言及していない。)
言語がなくなることは、
積み重ねられてきた知恵や記憶がなくなり、
その言語を話す民族がいなくなるということ。
国ごとの言語に限らず、方言もそう。
明治の末、日本は標準語を普及させるため、
沖縄のことばを学校で使うことを禁じた。
植民地では言語政策が行われる。
言語の支配は同化に有用だろう。
母語を奪われることは、生きる力にかかわる。
*
言語を美しい、と感じるわたしは、
なにを美しいと感じているのだろう。
かけがえのないものである言語が失われようとするとき、失われるのは言語だけでなく、その背後にあるすべての記憶である。…言語には個人の生を超えた生命力がある。ダビの本の中に「埋葬」された記憶がヨシェバによって掘り起こされ、新たな本へと化身して蘇るように、ストーナムの墓地に埋められたオババの言葉や、彼の本に書かれた「古い世界」の言葉たちも、あたかも蝶(古来から記憶や魂、再生の象徴とされる)のごとく、いずれ新たな命を得て飛び立っていく。
『アコーディオン弾きの息子』訳者あとがきより
*出典 ベルナルド・アチャガ『アコーディオン弾きの息子』(金子奈美訳)