いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。

ドミニク・チェン

ことばで表現しきれないもどかしさや、
ことばによって取りこぼされるものについて、
ずっと考えていた(これからも考える)。

その奥には、
ことばで100%伝えられたら他者とわかり合える、
という誤解があったのかもしれない、と感じる。

*

そもそも100%伝え合ったらわかり合えるのか。

*

わたしは、解釈の余地があるものを好み選ぶ。
文学や映画やその他もろもろ。

押しつけがましくなく、
こちらがある状態のまま一緒にいられるもの。

*

本棚を整理していると、
10年前の文楽公演のパンフレットを見つける。

文楽の人形も、お能の能面も、
オモテの表情は変わらない。

けれども人形遣いや太夫、役者によって、
自由自在にさまざまな表情があらわれる。

歌舞伎や日本舞踊には型や振りがあるが、
役者がちがえばまったく違うものになる。
決められた型や振りが生きた動きになる。

*

ことばのもつ意味は限られている。

なので、自分を翻訳しきることはできない。
その上、他者のことばを勝手に意味づける。

でも、
純度100%で伝え合えないことは
救いでもあるかもしれない。

なにが言いたのかわからないこともある。
伝えたいことから離れていくこともある。

伝えたいことが溢れ、
「ありがとう」「ごめんなさい」
の一言によってのみ、伝えられることもある。

わたしという限定されたものから生まれることばに、
より広い意味を見出してくれるのが他者であるなら、
伝えきれないことは悲嘆することではなく、
つねに新たな発見の可能性がある希望の種、
といえるのかもしれない。

もちろん、
限られたことばや他者をぞんざいに扱わず、
生きているものとして向き合うことを前提として。

自分自身のなかにも吃音という「わからなさ」が同居しているし、多言語間の翻訳だけではなく同じ言語の話者同士でも意思の疎通が図れない状況を、当事者として生きてきた。
いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。

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*出典 ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』より