「≪名宛人不明≫の付箋」がついて戻ってくる祈りが、それでも「祈り」でありつづけるのは何に拠るのか。
鷲田清一
気になることばに「祈り」があり、
似ていることばに「願い」がある。
「願い」は、だれが、なにを、と言える。
「祈り」は、ことばやからだを超える。
「願い」には、つよさがある。
「祈り」は、つよさではない。
「願い」には、「とき」がある。
「祈り」は、「とき」を超える。
*
ことばに対する感覚や問いを考えることについて
うんざりだ、とじぶんに対して思うことがある。
こんなことば遊びみたいなこと、何にもならない。
*
けれど、どのようなことばに囲まれて生きるかで、
わたしたちの安心感や不安感は大きく変わる。
ことばは、自尊心や生きたいという力を簡単に奪う。
そのことばが降り積もれば、道はふさがれてしまう。
マウントも断罪も自己責任論のたぐいも、
そういうことばづかいを是とするならば、
それが是である社会になっていくだろう。
そんなことばに囲まれて大きくなるとき、
子どもたちにとって、
ことばはどういう存在になるのだろうか。
*
たとえば、
「文学は役に立たない」と一蹴され続ければ、
……そう聞かされ続ければ、
やはり文学は役に立たないものになるだろう。
そのようなことばを投げかけ続ける社会では、
文学はおまもりとしてはたらなくなるだろう。
*
ことばや、ことばによるコミュニケーションを
ひとりで考え続けるだけでは、何にもならない。
ただ、この違和感をあきらめたくない。
ことばには、手ざわりや重みがある。
あたたかくて、きらきらしていて、
単語ひとつにも血がかよっている。
関係性のなかでいきいきと生きて、
時間と空間を超えて交流ができる。
想像力を現実へと変える力のある、
ほんとうに奇跡みたいなものなのだ。
─未来の子どもたちが、
ことばを信じられる社会になりますよう─
≪名宛人不明≫で戻ってきても、祈り続けたい。
言葉が「降り積もる」とすれば、
あなたは、
どんな言葉が降り積もった社会を
次の世代に引き継ぎたいですか?荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』より
*出典 鷲田清一『「待つ」ということ』より