知るより、信じるのがルースだ。
だから、そうさな、ああいう形で終わってよかったんじゃないか。
カズオ・イシグロ
知ることと、信じることの間柄を思う。
わたしはすぐ疑心暗鬼になる。
斜めからものごとを見ている。
これでいいのか、
本当にそうなのか、
それってどういうことなのか。
*
信じるとは、強くなることなのか。
崩れたら瓦解するもろさのことなのか。
おもて向きのなめらかさに安心していたいのか。
苦しくても手をのばしてざらざらにふれたいのか。
*
ある人に言われたことばが残っている。
─この世界にはたくさんの苦しみがあります。
世界の市民として眼を見開いていてください─
見たくないものも見て、知ること、
そして、わたしなりに関わっていくこと。
一人ひとりがはたらきかけ続ければ、
あるべき方向へ向かうと信じること。
そう受けとった。
おそるおそる、ふれた上で、信じる。
*
信じる、と、信仰、も違う。
信仰は、もっとわたしから遠い。
*
キリスト者の方がいる場に通っていたとき、
すこし親しくなってから、
信仰について聞きたいと尋ねたことがある。
やさしい人だった。
─センシティブなものを含むことだから、
人によってはそういうことを聞くのは
すこし慎重になったほうがよいかもね─
というようなことを言ってもらった。
ほんとうに、そうだ。
その人のことを知りたい、という気もちより、
「信仰」がどういうものなのか知りたいという
自分本位な興味からわたしは質問したのだった。
信仰とは、なんて説明できるはずなかった。
あなたは誰ですか?
と聞いているのとおなじだ。
それを知るには自分が信仰するしかない。
それ以外の知り方は辞書で意味を引くようなもの。
*
それでも信仰ってなんだろうと考える。
たとえば、希望となにが違うのだろう。
*出典 カズオイシグロ『わたしを離さないで』より