僕は、母の心を、飽くまで母のものとして理解したかった。──つまり、最愛の他者の心として。

平野啓一郎

10代の頃、誰といるかによって性格の変わる自分が
八方美人で嘘つきのようなうしろめたさがあった。

けれどもそれは演技ではなく、自然と変わるのだった。



核となる「私」などなくて、
関係性によってことばもからだも変わる。

それ平野啓一郎『私とは何か』「個人」から「分人」へは、
宮沢賢治のことばと結びつき、わたしの腑に落ちた。


わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

宮沢賢治『春と修羅』「序」より


いろいろなわたしがいるように、
すべてのひとは多様で、つねに変わりつづける。

けれども、関係性が近くなると、
そのあたりまえに不寛容になる。

たいせつなひとの知らない一面を見ると、
知らないひとになってしまったような、
裏切られたような気もちになったり。

自分といるときのそのひとを本来の姿だと思い、
自分に発せられることばこそ本心だと感じたり。

そうあってほしい期待は、その人ではない。

わたしにとってのわたしも、
いつもいつもいつもどうにもならない他者だ。

|追記|
主客合一、自他合一は、「他者性」とどう交わるのか。
他者の尊重・関係性・場という概念はどうなるのだろう。

わかり合えなさを前提に他者を尊重する
という思考が自他をわけることでも、
わたしはまだ、いまはそちらがすっとくる。


──最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、僕は信じます。

──すっかりわかったなどと言うのは、死んでもう、声を発することが出来なくなってしまった母の口を、二度、塞ぐのと同じだった。僕は、母が今も生きているのと同様に、いつでもその反論を待ちながら、問い続けるより他はないのだった。わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。

『本心』より

line

*出典 平野啓一郎『本心』より