僕は、母の心を、飽くまで母のものとして理解したかった。──つまり、最愛の他者の心として。
平野啓一郎
10代の頃、誰といるかによって性格の変わる自分が
八方美人で嘘つきのようなうしろめたさがあった。
けれどもそれは演技ではなく、自然と変わるのだった。
*
核となる「私」などなくて、
関係性によってことばもからだも変わる。
それ(平野啓一郎『私とは何か』「個人」から「分人」へ)は、
宮沢賢治のことばと結びつき、わたしの腑に落ちた。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)宮沢賢治『春と修羅』「序」より
いろいろなわたしがいるように、
すべてのひとは多様で、つねに変わりつづける。
けれども、関係性が近くなると、
そのあたりまえに不寛容になる。
たいせつなひとの知らない一面を見ると、
知らないひとになってしまったような、
裏切られたような気もちになったり。
自分といるときのそのひとを本来の姿だと思い、
自分に発せられることばこそ本心だと感じたり。
そうあってほしい期待は、その人ではない。
わたしにとってのわたしも、
いつもいつもいつもどうにもならない他者だ。
|追記|
主客合一、自他合一は、「他者性」とどう交わるのか。
他者の尊重・関係性・場という概念はどうなるのだろう。
わかり合えなさを前提に他者を尊重する
という思考が自他をわけることでも、
わたしはまだ、いまはそちらがすっとくる。
──最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、僕は信じます。──すっかりわかったなどと言うのは、死んでもう、声を発することが出来なくなってしまった母の口を、二度、塞ぐのと同じだった。僕は、母が今も生きているのと同様に、いつでもその反論を待ちながら、問い続けるより他はないのだった。わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。
『本心』より
*出典 平野啓一郎『本心』より