さういふ言葉で言へないものがあるのだ
さういふ考方に乗らないものがあるのだ

さういふ色で出せないものがあるのだ
さういふ見方で描けないものがあるのだ

さういふ道とはまるで違つた道があるのだ
さういふ図形にまるで嵌まらない図形があるのだ

さういふものがこの空間に充満するのだ
さういふものが微塵の中にも激動するのだ

さういふものだけがいやでも己を動かすのだ
さういふものだけがこの水引草に紅い点々をうつのだ

高村光太郎

だれもがこういう想いを抱えている、と想像してみる。

「さういふ」ものでは表せないものがある。
むしろ、そんなものばかりだ。たいせつなものほど。

ほんとうなら第一に伝えたい、切実なものだとしても、
社会で流通することばや文脈には乗せることができず、
語られることのないまま、諦められた想いが
世の中にどれくらいある(あった)のだろう。

芸術家は、ことばや絵や音や踊りをとおして語る。
(だれかのためにごはんを作ったり、ものを作ったり、
 だれかに手紙を書くようなことも、どこか似ている)

それらの語りは、
わたしたちのこころの内には確かに響いているのに、
表へ出す術がないために弔うしかないようなものに
「あるよ」と寄り添い、「大事だ」と見留めてくれる。

“ないもの” にならないだけで、
だれかにまなざしてもらえるだけで、
そのものはすこし表情を変える。

古典とよばれるものが参照され愛され続けるのは、
どうしようもないわかり合えなさがありながらも、
場所も時代も超えて、
わたしたちの根底にはわかり合えるものがある、
そう言いうる望みだとおもう。

*

高村光太郎は、詩を書き、絵を描き、彫刻をした。

「さういふ」ものであらわせない、
「言葉」や「色」や「見方」に近づこうとした。

水引草の紅い点々に想いが宿るように、
わたしたちは紅い点々を打って生きている。

Kunst gibt nicht das Sichtbare wieder,
sondern macht sichtbar.

芸術とは見えるものを再現するのではなく、
見えないものを見えるようにするものである

Paul Klee/パウル・クレー

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*出典「激動するもの」(『日本語を味わう名詩入門』)より