「言ったことをわかる」のではない。「言おうとしていることをわかろうとする」だ。

尹雄大

ことばを求めるわたしと、ことばを信頼しないわたし。

録音した音声が、自分の声ではないようでむずがゆく感じるように、
書いた言葉も、書いたそばから自分のことばではないように感じる。

「そういうことではない」
ことばは感情や行為やもの・ことを代替するもので、それ自体ではない。

第一言語が同じ日本語だとしても、
たとえば「悲しい」の捉え方は人の数だけ違う。
どの経験に紐づくのか、良いものと捉えるのか、嫌なものと捉えるのか。

仕事で必要になる説明文のようなことばは別として、
(それも無機質になりすぎるのは避けたいと思っているけれど)
自分のことを話すとき、経験を語るとき、感想を伝えるとき、
無垢で形にならない何かをきちんと伝えたいと思うときほど、
つねに、つねに、「言いたいことはこれじゃない」と感じる。

子どもの頃から、ほんとうに嬉しかったことや、悲しかったことは、
親にも友だちにも誰にも言わなかった。

ことばではまるごと伝えられない
=わかってもらえない
=たいせつな”なにか”が損なわれる
そんなことは許されないと感じていた。

本も映画も絵画も、感想を言い合うより、
ひとりで感じたものをそのまま置いておきたかった。
ことばにまとめると、台無しになると感じた。

ひとり旅も、感じたままでいられるから好きだった。
誰かといれば、ことばにしないことは、
何も感じていないか、わたしがいないことと等しい。

閉じこもっている、何も考えていない、何も感じていない、
と思われないようにと焦り、嘘ではない範囲で何か言う。
そうすると、自分の感覚は遠のき、どこかへ行ってしまう。

第一言語が「日本語」かどうかにかかわらず、
そもそも、わたしの中の”なにか”を翻訳することが必要で、
それを日本語にする時点でひとつめのずれが生じる。
そのことばを受け取る人との間でふたつめのずれが生じる。

言いたいことは、それじゃない。
伝えたいことは、それじゃない。

そう思いながら、わたしはことばに助けられてきた。
たくさんの本が帰るところであり、おまもりだ。
文学が最後の砦だ(文学はことばの表現だが、ことばの意味ではない)。

誰かとのコミュニケーションを諦めたいのではない。
自分を翻訳するということは、自分もある意味、誰か、他者。

気にしていたいのは、だれかの、わたしの、
音や文字になったことばではなくて、言おうとされていたこと。

ずっと、「ことば」への矛盾する態度を自分に問いたくて、いる。
なによりも拠りどころで、なによりも疎外感を感じさせられるもの。

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*出典『つながり過ぎないでいい』より