弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり
親鸞
弟子に向かって
「親鸞一人がためなりけり」と言いきるほど、
親鸞の生は阿弥陀仏の物語と出会った。
*
南無阿弥陀仏
と、わたしは言えない。
上滑りして、こそばゆいような
後ろめたいような気持ちになる。
永観堂の「みかえり阿弥陀」に感動し、
自然と称えたこともあったけれど、
それもなんとなく歌のようだった。
わたしは自分自身が阿弥陀仏の物語や立てた願いや
浄土の存在をどう受け止めているのかわからない。
現実にあるものだとは思っていない。
教えも理解できていないし信仰もおそらくしていない。
けれど、
“他力というは如来の本願力なり” “念仏はみ仏の呼び声”
などの語り方が好きだ。ああ、と思う。
理屈でわからなくても、救われることがあると感じる。
ありえない、と否定できないのは、なぜなのか。
親鸞ほど自己を見つめてごまかすことをしなかった人が、
「親鸞一人がためなりけり」と言いきる物語があることは、
わたしの安心になる。
*
『歎異抄』のことばには凄みがある。
強いけれど、ずっと迷っている。
だから揺さぶられるのかもしれない。
これを書かせた親鸞と唯円の関係性、
そして、唯円の表現力に敬服と感謝。
*出典『歎異抄』(講談社学術文庫)より