ある人に流れた十年間という時間を想像してみよう。それは、その人が十年間ずっと、何かの感覚を感じ続けているのだろう、と想像することである。私たちは、感覚自体を何ら共有することなく、私たちの中に流れる時間と同じものが他の人びとのなかにも流れているということを「単純な事実として」知っている。
岸政彦
『福田村事件』
https://www.fukudamura1923.jp
『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』
https://kokc-movie.jp/index.html
頭と心を覆っている。
わからないまま、ぐるぐるまわっている。
どうしてこうなるのか。
自分も簡単に加害者側にまわるだろう。
どうしてなのか。
加害側の集団、組織にいた人は、
個人としてもこう振る舞ったろうか。
ひとり「否」の声をあげても、
集団のなだれは止められない。
無意味なんだろうか。
これでいいのか、立ち止まろう、
と声をあげることは、
ただひたすら無力なんだろうか。
この考え方は間違っているのか。
<正気>と<狂気>は誰が決めるのか。
そもそもわたしは声をあげられるのだろうか。
*
ケネス・チェンバレンについて、
友人は「誇り」という言葉をつかった。
*
ケネス・チェンバレンは、
警察が不当にドアを破壊し押し入ることを拒んだ。
彼は何もしていない。ただ、家にいた。
医療用通報装置が誤作動しただけだった。
訪れた警官に玄関を開けて説明すれば射殺されなかった。
けれど、黒人の元海兵隊員である彼には、
警官を許せない過去と、屈することを拒む
相当の理由があったのだろう。
関東大震災、流言飛語の飛び交う混乱のなか、
「10円50銭」の発音が生死の境を分けた。
映画『福田村事件』に登場する朝鮮の飴売りの少女は、
自警団から逃げられないことを悟ると
朝鮮人である自らの名前を高らかに叫び、命を奪われた。
命を失いかねないときにも、失えないほど、
自分が何者か、何を信じるか、という誇りが、
人には大事でそれが支えになるのだろうか。
それを想像することは、
尊厳を守ることにつながるだろうか。
*
ナチス時代、ノルウェーの強制収容所において
捕虜を殺さなかった看守の多くは、
ユダヤ人捕虜と個人的な会話を交わしていたという。
映画監督の森達也さんは、
オウム信者を被写体にドキュメンタリーを撮り始めたとき、
信者一人ひとりは優しく穏やかで
狂暴な要素が欠片もないことに混乱したという。
山谷で路上生活者支援を続ける僧侶の吉水さんは、
“ホームレス”という人はいない、
一人ひとり過去があるんです、と話してくれた。
当たりまえのことだ。
でも、忘れてしまう。
見ようとしていない。
高校時代の恩師は、20代の頃に路上生活をしていた。
たくさんの過去を話してくれた。
彼がいなければ、今のわたしはいない。
*
わたしの向けてきたたくさんのまなざしにも偏見がある。
正せていないことも、気付いていないこともある。
でも、知ることで修正はできる。
*
森達也さんは言う。
「虐殺における温度と圧力は、他者への不安と恐怖だ」
偏見や差別もそうかもしれない。
ハンセン病、HIV、そして直近でわたしたちは新型コロナを経験した。
わかならいことの不安と死への恐怖によって、
感染者を遠ざけ、関わりを絶ち、隔離する。
自分や家族が無事であることでいっぱいいっぱいで、
視野が狭くなる。攻撃的になる。わたしもなった。
歴史を振り返るのとは違う。渦中は混乱している。
何が正しい情報でどう行動すべきなのか、わからない。
どうしたらよいかわからなかった、そうするしかなかった。
それの繰り返しなのだろうか。
*
誰もが、あるところではマジョリティに属し、
あるところではマイノリティに属する。
どのような括りでも、
どれだけラベリングしても、
そこには、ひとり、ひとり、ひとり…がいる。
すべての人がそれぞれ語りきれない過去をもち、
喜び、怒り、苦しみ、悲しみを感じ続けている。
大事に想う人がいて、大事に想われている。
それを想像することは難しくはない。
*出典 岸政彦『断片的なものの社会学』より