人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、──これが先生であった。
夏目漱石
─もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らしました─
*
─私の生命と共に葬った方が好い─
と、自らの過去を秘め続けてきた「先生」は、
最期、「私」に会ってすべてを語ろうとした。
けれど、会うことは叶わず、手紙を遺した。
─あの時私は一寸貴方に会いたかったのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかったのです─
─私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです─
会って語ることができたら、「先生」は救われたろうか。
語り終えて尚、自死を選ばねば救われなかったのだろうか。
─私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか─
─私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿ることが出来るなら満足です─
語ることで昇華されるもの、救われるものとはなにか。
語られた者が損ない、背負い、引き継ぐものはなにか。
*
─私は人間をはかないものに観じた。人間のどうする事も出来ない持って生れた軽薄を、はかないものに観じた─
*出典 夏目漱石『こころ』(新潮文庫)より