くらやみに馬といるとき、わたしの中では「ヒトの言葉を使う領域」以外の部分がおおきくなる。でも文章で書こうとするときは、頭の中でヒトの言葉を使って考える。それは、くらやみに慣れたあと懐中電灯をつけたときの感じにとても似ている。ひとつの言葉を選ぶことによって、それまで感知していたくらやみの濃淡やほのかな光が失われてしまう。
わたしが言葉と結ばれない。
読んでは滑り、出しては半笑。
言葉によってわたしが遠のく。
*
─わからないことばかりだった。ヒトビトの世界で生きていくために、ヒトの動きを観察し、情報を集め、推測し、こういうときにはこう動けばいいのだろうか、と考えることが習慣になった─
(p.58-59)
─私は内側の言葉を口にしなくなった。私も「言うこと」と「やること」が違うヒトになった─
(p.59)
*出典 河田桟『くらやみに、馬といる』より