カメラは救いよ
見たくないものを見てしまった時
言葉では表現できない
でもレンズを通して見る時
希望や力を選び取ってる
ヤラ(『オールド・オーク』より)
こういう救いが、誰にも異なる形であるのだと刺さる。
*
ケン・ローチ監督の『オールド・オーク』。
イギリス北東部3部作の最終章であり、監督最後の作品。
イングランド北部の炭鉱の町に、
戦火を逃れたシリア難民たちがバスで到着するところから物語が始まる。
一部の地域住民の反応は、違う国の話とは思えず、
自分はどうだ、と何度も思う。
近所に、同じようなバスが到着したら何を思うか。
敵意を表す隣人に、家族に、何を言い、行動するか。
自分たちも決して余裕があるわけではない状況において?
*
映画の核に「連帯」がある。
今まで「連帯」という言葉を、
自分の言葉として使ったことがない。
強い結束と、抜けることが許されない、
少し怖いイメージがあった。
それが、
慈善ではなく、連帯だ
『オールド・オーク』より
というセリフで変わる。
胸を突かれた。
慈善ではなく、連帯。
わたしからあなたへ、ではなく、
あなたとわたしと共に。
とても大事な態度だと腹落ちした。
一方で──
ラストの行進で掲げられる旗には、
「強さ」「連帯」「抵抗」のスローガン。
英語と、そして、アラビア語で。
美しいシーン。
でも、わたしはこれらの言葉に共振しなかった。
この言葉が使われる文化に触れていないからだ。
言葉を知るには、歴史と文化を知る必要がある。
さらに、直感で言葉に感動するためには、
知るだけでも足りなくて、
その言葉をもって生きていないと難しい。
そういう言葉が増えたら、どれだけ豊かだろう。
日本語しか知らないことから脱したい、と思いながら、
語学への苦手意識が…という言い訳を繰り返している。
*
もうひとつの核は、「希望」。
「希望」も自分の言葉として使った記憶があまりない。
「和食よりイタリアン希望」みたいな使い方はしても。
「希望」をどう捉えたら良いのか、保留したままでいる。
希望を持つには、力に抗う強さと──信念がいる
友達は希望を“不快なもの”と呼ぶの
でも希望を捨てたら心臓も止まる『オールド・オーク』より
希望には2人の美しい娘がいる。
その名は怒りと勇気──現状への怒りと、それを変えようとする勇気のことだ。『オールド・オーク』パンフレットより
わたしのなかで、#60の言葉とリンクする。
よねという存在が、わたしの希望であり、
わたしもそうありたい、という希望でもある。
「希望」が少しだけ混ざり合って、近づく。
*
わたしはイギリスの炭鉱ストライキの歴史を知らない。
日本の炭鉱の歴史すらほとんど知らない。
『オールド・オーク』を観た友人に、
1942年の長生炭鉱水没事故を知らされた。
昨年、初めて、市民団体の潜水調査で遺骨が回収されたという。
(参照:安田菜津紀「日本政府はこの遺骨に応えて―長生炭鉱で83年後の発見、問われる公の責任」)
漱石に『坑夫』という作品がある。
本棚を観ると、新潮文庫の漱石はすべて揃えたつもりが、『坑夫』だけがない。
作品は知っているけれど、読んでいない。
興味がない、ってこういうことなのだと怖くなる。
*
よりよい未来を、って、
立場も価値観もばらばらな中、
どう共有できるのか。
人に・国にどんな歴史があって今に至るのか、
そこ・ここからひと続きのところに未来がある。
何があり、なぜ起きたのかを知らないと、
弱いわたしは、偏見や加害の歴史を繰り返す。
希望を持つために正しく怒り、行動できるか。
「希望」は失いたくない、と思う。
──『オールド・オーク』の後、
『パレードへようこそ』を観たくなり、観た。
同じく、連帯と希望。そして尊厳。
踊りたくなる、大好きな映画。
“シュクラン” ──意味を?
いいや
“ありがとう”よ
『オールド・オーク』より

*出典 ケン・ローチ『オールド・オーク』(字幕翻訳:石田泰子)より
