美については、高遠な、深刻な、鋭敏な言葉が多くの人々によって語られている。私のこの平凡な、物憂い独白を聞いてくれる人は少ないかもしれない。無言の風景との対話の中に、静かに自己の存在をたしかめながら、こつこつと歩いてゆくという生き方は、すべてが複雑で高速度の時代の歩みからは外れているかもしれない。しかし、美を素朴な生の感動として見る単純な心を、私は失いたくない。
東山魁夷
絵画との堺があやうくなったのは、
東山魁夷が初めてで、唯ひとり。
≪静唱≫(1981年制作)
絵の中に入っていけそうだと、初めて感じた。
樹枝や水面のさざめきが聴こえ、影のゆれる匂いがした。
深いエメラルドは魁夷のこころに留まらない。
*
──私の描くのは人間の心の象徴としての風景であり、風景自体が人間の心を語っている──
(『日本の美を求めて』講談社学術文庫)
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──絵になる場所を探すという気持を棄てて、ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから、私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出会う──
──私は、いま、波の音を聴いている。それは永劫の響きといってよいものである。波を動かしているものは何であろうか。私もまた、その力によって動かされているものに過ぎない。その力を何と呼ぶべきか私にはわからないが──
(『風景との対話』新潮選書)
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書物『風景との対話』が絵ならば、
帯に書かれた川端康成の文章は額。
美しいたたずまいを抱きしめたくなる、
そんな本が、強く、弱く、してくれる。
──美しくさはやかな本である。読んでゐて、自然の啓示、人間の浄福が、清流のやうに胸を通る。これは東山魁夷といふ一風景画家の半生の回想、心の遍歴、作品の自解であるが、それを通して、美をもとめる精神をたどり、美の本源をあかさうとするこころみは、つまり、個を語つて全を思ふねがひは、清明に、温和に、そして緊密に果たされてゐる。散文詩のやうな文章が音楽を奏でてゐる──
(『風景との対話』新潮選書 帯文 川端康成)
*出典 東山魁夷『風景との対話』より